christian_k15のメモ帳

プロテスタントのクリスチャンです。クリスチャンになって20年が過ぎました。

信じて祈り求める

我が家は兼業農家です。今日は1日農作業の日でした。兼業だと、どうしても土日祝日にしか作業の時間が取れないので、その日の予定が進まないとなかなか困ったことになります。植物は生き物なので苗を植えるタイミングが遅れたらそれだけで収入に影響が出てくるのです。農業をやっていると本当に神様の創造の御業を感じられて楽しいです。人ができるのは種を蒔いたり水や肥料をやったり脇芽を摘んだりということだけで、実を結ぶのは神様の御業なんだと実感できます。人間には植物を思いのままにできる力はありません。全部、神様が創られたものを利用させていただいているだけです。

今年は用意した苗の生育も好調で、世話をするタイミングも遅れずに済みました。それもこれも主の恵みです。

昨日はまさに定植直前の農薬散布をしないといけなかったのですが、天候は朝から生憎の雨。それも水曜日から降り続けている秋雨前線の影響でした。予報ではその日の午後から回復に向かうというので夕方の時間帯に掛けてみることにしました。その時ふと、牧師先生が以前に雨を止ませる祈りの話をされたのを思い出しました。牧師が「雨を止ませてください」と祈るとその時降っていた雨が本当に止んだ、という話です。クリスチャンになりたてのまだ若い頃その話を聞かされました。

私は作業をする頃には雨が上がっていますように、天候が回復しますように、と祈りました。主がニコニコと喜ばれたのを感じました。(ちょっと前まで私は主のことを疎かにしていたので、戻ってきたことを喜んでくださったのだと思います。まるで放蕩息子の喩えのまんまですね)

そして夕方、雨は上がり、作業は予定通り進んで今日の準備を終わらせることができました。

それだけではありません。

今日はその苗を圃場に全部植えてしまわないといけない予定でした。天気予報では、今は降っていないけれどもしかしたらこれから降るかもしれない。午後は折り畳み傘を持ってお出かけください、という話でした。植えてしまってから雨が降るのは大歓迎ですが、作業の途中で降り出してきたら困ります。私は祈りました。「主よ、どうか今日は雨を降らせないでください」

天候はずっと曇り空。午後には冷たい風も吹いてきました。農作業をするにはちょうど良い気候ですが、雨が降る直前のような風です。でも私は雨は降らないという確信を持っていました。作業は進み、予定通り全部の苗を植えてしまうまで、とうとう一度も雨は降らなかったのです。空は曇って冷たい風が吹いていただけ。

 

信じて祈り求めるならなんでも与えられる、というのを実感した1日でした。

イエス・キリストの御名をほめたたえ、神を賛美します。ハレルヤ、アーメン。

 

信仰は神様がくださる“もの“

日常で「信仰」と聞くと、何かすごく胡散臭い綺麗事に聞こえてきます。不思議です。

人間には信仰を正義の旗にして争ってきた歴史もありますから、条件反射的に「うわ、この人やばい。近寄らんとこ」となるのもよくわかります。

日本人のクリスチャンに対するイメージは良い人で優しくて大人しい感じだと思いますが、これが外国、例えばアメリカの福音派のイメージになると別で進化論も信じないクレイジーな信者、となります。多くの人にとって、信仰は人間の思想、心の持ちよう、考え方、感情に過ぎないので、信仰が人間社会の権威や価値観よりも優先される場面を見ると理解不能になってしまいます。

こうしたギャップが起きてしまうのは、「信仰」の意味が違っているからです。

 

クリスチャンでない人にとって信仰は人の思想や心の持ちようですが、クリスチャンにとっての信仰は神様がくださる“もの“です。目には見えませんが実体があり、人の思想だとか心の持ちようだとかには全く関係なく動く“もの“です。

あまりピンとこないと思います。信仰が“もの“だというのは、私も初めて教えてもらったときにはわかっていませんでした。

そのとき牧師先生が噛み砕いて教えてくださったのは、信仰はスイッチのようなものだという事です。

部屋の照明はスイッチを押せばつきます。スイッチを押すときに人は何を考えるでしょう?今日の仕事の愚痴?厄介な他人への恨み言?

ネガティブな感情を持っていたから照明がつかなかった、そんな事は起こりません。善人だろうが悪人だろうが、普通の人だろうが殺人鬼だろうが、老人から子供まで、照明をつけるためにやる事は「スイッチを押す」ただこれだけです。人の思想や心の持ちようは全然関係ありません。もし数百年前の人が現代社会に来て電化製品を見たら、自由自在に操る私たちは魔法使いか「信仰心の篤い信者」に見えるかもしれませんが、電化製品を動かすのに必要なのはただの電気と各種のスイッチだと私たちは知っています。クーラーをつけるために魔法の修行をしたり善人になる必要はありません。

 

この世の部屋の照明は停電したらスイッチを押してもつかないことがありますが、神様が私たちにくださる「信仰」には停電もなければ断線もありません。信仰は神様が作った素晴らしいシステムで、イエス・キリストの御名を信じて救われたら、そのシステムのユーザーになれます。しかも無期限の無料カスタマーサービス付き。一度救われたら人の側でやる事は信仰を「使うか、使わないか」という選択だけです。

 

イエス様に助けを求める。

新約聖書の一場面にこんな出来事があります。
エス様が舟に乗って湖を渡っておられた時、弟子たちも一緒の舟に乗っていたんですが、湖の上でいきなり暴風が吹いて舟が波をかぶったらしい。
波をかぶるくらいですから相当強い風だったのでしょう。もしかしたら舟自体もかなり揺れたかも。今にもひっくり返ってみんな湖に投げ出されそうになってるのにイエス様はひと眠りされてる。弟子たちは慌ててイエス様を起こして、「主よ!助けてください!」と叫びます。
エス様は起きて、弟子たちにこう言われます。『なぜこわがるのか。信仰の薄い者たちだ。』
そして起き上がって風と湖を『黙れ、静まれ』と一喝。イエス様に怒られた風はやみ、湖は大凪ぎになります。弟子たちはイエス様が持っておられる権威の大きさに改めて驚いたのでした。


現代を生きるクリスチャンも、この弟子たちのような経験をすることがあります。
というか、ここまで大きな出来事でなくとも、人生のなかで多かれ少なかれ似たような経験をします。突然の事故。突然の事件。突然の災害。
クリスチャンは主とともにいますが、事故や事件、災害に遭います。これらのことと死ぬまで全く無関係でいられる人はおそらく居ないでしょう。日本はとくに災害大国と言われるような国で、年に一度はどこかで大きな災害が発生しています。災害には遭わなくても何かの事故や事件に巻き込まれる人も多くいます。クリスチャンといえどこの世の災いに全く無関係ではいられないのです。
特に地震や台風や大雨といった災害時に、なんでこんな目に遭うんだと神様に不平不満を言ったり、あるいは被災者に天罰が下ったんだザマアミロと言ったりする人がいます。
ところが、この湖の暴風のシーンを読むと、イエス様と一緒にいても災害に遭う時は遭うし、天罰云々は的外れだと言うことも分かります。だってイエス様が天罰受けるわけがないですからね。神様を信じようと信じまいと、ことが起こる時は起こるのです。

エス様が「信仰の薄い者たちだ」と言われたのはそのまま現代の私たちにもグッサリ刺さるみことばです。おっしゃる通りですとしか言いようがないのですが、だから諦めたり絶望するよりも、せめて弟子たちの行動に習ってみたいと思います。

弟子たちは遠慮なくイエス様を起こして助けてくださいと言いました。
エス様が乗っている舟ですからひっくり返る事は絶対になかったでしょう。弟子たちがイエス様を起こさなくても、そのままにしておいても大丈夫だったのです。
でも、弟子たちが助けを求めたのは別に間違いでもなんでもないと思います。素直に助けてくださいと言えば良いのです。「主はこんな状況からでも私を助けてくださるから大丈夫」と言う信仰を持っている人なら話は別ですけど、そうでないなら助けてくださいと祈るのが正解です。イエス様は祈りを聞いてくださり、必ず助けてくださいます。何かあったときに助けも求めずただ不安になったりぐちぐちと怒ったりして神様を信頼しないくらいなら、こわいから助けてくださいと祈るほうがずっとマシです。持っているのが薄っぺらい信仰でも、全然信仰を持っていないよりはずっと良い事だからです。

リハビリ信仰生活

エス様から離れた生活が長かったので、リハビリするように神様の時間を取っています。

BBN聖書放送を流したり、YouTubeの礼拝配信を見せてもらったり、去年牧師先生が来日された時の交わりの録音データを聞いたり。

こうしてみるとこの数ヶ月の生活でいかに無駄な時間を取っていたことか、良く分かります。まあ、わかったところできっぱりはっきり無くすことができる意志と実行力があれば、そもそもこんな状態になっていなかったんですけど。

聖霊様に助けられて、この世のものより神の国と神の義を求めるようになりたいです。

悔い改めの祈り

クリスチャンでない人でも一度は聞いたことがある『悔い改め』

イメージされるのはカトリック教会の懺悔室でしょうか。
実際私もクリスチャンになる前、キリスト教のイメージといえば教会の十字架の前で罪を告白する『悔い改め』でした。
私はカトリックではなくプロテスタントの教会に所属することになったのですが、初めて牧師先生にお会いしたときに懺悔をどうやってするのか聞いた記憶があります。いわゆる懺悔はここではしないよ、あなたがしたければあなた自身が神様に悔い改めをすればそれで良い、と答えられました。キリスト教といえば聖職者に罪を告白する『悔い改め』だというイメージが刷り込まれていたので驚きました。
『悔い改め』と言えば神様に自分がやった悪いことを告白して赦しを乞うこと。私の個人的なイメージですが一般的にも大枠は外れていないと思います。
しかし、クリスチャンの『悔い改め』は、「悪いことを反省してあらためる」ことだけではありません。

罪を反省するのも悔い改めの祈りですが、それ以上に重要な『悔い改め』があります。
クリスチャンにとって重要なのは『神様のほうを向く回心の悔い改め』です。
神様から離れ、神様に向かっていなかった心を神様へ回す、自分が神様のほうを向いていなかったことを認めて悔い改める。神様へ立ち帰る、というのが重要な『悔い改め』です。

神様が私たちを離すことは絶対にありませんが、私たちが神様から離れようとすることはあります。

私の話をします。
ここ数ヶ月、私は祈りをおろそかにしていました。
ここ数ヶ月、私は聖書を開いていませんでした。
ここ数ヶ月、私は賛美歌を聞きませんでした。

これらはクリスチャンライフの要なのですが、これをしなかったから神様から離れていったということではありません。神様から離れて神様のほうを向かないでいたから、祈らず、聖書を読まなくなり、賛美歌を流さなくなったのだと思います。祈らず、聖書を読まず、賛美をしない。私は決して真面目なタイプのクリスチャンじゃないので毎日これをやってきたわけじゃありませんが、これほど長期間神様から離れていたのは今までなかったことです。神様のことよりもこの世のことを優先した結果、日常の意識のなかでも神様から離れていました。

数ヶ月経ってさすがにヤバいんじゃないかと思い、『悔い改めの祈り』をした時、呆然としました。
祈りにまるで力がありませんでした。私の祈りは壁に向かってつぶやく独り言のようでした。これは私が神様のほうを向いていなかったからです。私は何もないほうを向いていたのです。手応えがなくて当たり前です。
その時感じたのは神様のほうを向こうとしても力がなくて動けない、そんな感覚です。自分で方向転換ができない。それどころか自身の状態もわからない。聖書でイエス様が言われた「死人」ってこういうことなんだと思いました。

それまで『悔い改めの祈り』は「自分で自分を神様のほうへ向ける」祈りだと思っていました。違いました。私にできたのは「あなたのほうを向きます。向きたいです」と言うことだけでした。
今、私は神様の憐れみによって、やっとこのブログを書いています。


日常生活のわずかなズレがやがて大きなズレになってしまった。
そんな経験でした。
そして「神様のほうを向く」のは人の力ではできないということと、『悔い改めの祈り』は自分自身の決意表明ではなく神様に憐れみと助けを求めるものだということを知りました。

私の主イエス・キリストが私を憐れみ、私の方向転換をしてくださったことに感謝します。

模試で9点だった私が20年後に英語の勉強をやり直したら

私はプロテスタントのクリスチャンです。しかし日本の教会には行っていません。
私の所属教会はアメリカにあります。主任牧師はアメリカ人、日本人の副牧師や兄弟たちも所属してますが彼らはほぼバイリンガル。英会話スクールが開けるレベルの人たちです。
今まで通訳を任せっきりにして英語の勉強はやってこなかった私ですが、いつかアメリカの兄弟姉妹たちと通訳無しで会話がしたい!というわけで一念発起、おおよそ20年ぶりに真面目に英語の勉強を始めました。
始めるにあたってアメリカ留学経験のあるバイリンガル兄弟に勉強法を尋ねてみました。
その時おすすめされたのが以下の方法。

1、英語の現代語訳の聖書(New International Version)を、音声で聞きながら自分でも真似して音読する。

2、読んでてわからない単語は後でまとめて調べる。

3、youtubeなどで発音の練習をする。
  特にL R Th V M F

4、英文法の勉強も並行してやる。

5、頭の中ででも良いので、自分で文章を作りそれを話す。(話し相手がいた方が上達するけど、脳内会話でもオッケー)

6、歌詞付きの賛美歌の動画を観る。

7、とにかく正しい発音の英語を聴きまくる。

と、こんな感じ。

テキストですが、私はクリスチャンなので日本語の聖書は何度も読んでいて大まかに頭の中に入っています。英語の聖書を音声で聞くときにも、なんとなく和訳も浮かぶので良い効果を生むのでしょう。
そんなに繰り返し読んだ本なんてないよ!ってなるかもしれません。ポイントは興味のある教材、面白そうだなと思う作品を選ぶことだと思います。文字を見ながら聴いて真似をするという勉強法なので、できればテキストが手元にあったほうが良いです。英語圏の映画を英語字幕で観る、という手もありますね。動画配信サービスなら海外ドラマも字幕付きで観れたりします。

歌詞付きの曲の動画ならyoutubeにたくさんあります。好きなアーティストの動画を繰り返し視聴しましょう。
個人的に聞き取りやすいなと思う歌手はマドンナですね。マドンナの歌は歌詞を見なくても歌詞がわかるほど聞き取りやすいです。
歌詞を見ながら英語の曲を聴き込むのは、発音や音の繋がりの勉強に良いそうです。歌詞を覚えたら動画じゃなくても良さそうですね。

(聖書は無料で音声データ聴き放題です。ハレルヤ)




さて、肝心の効果のほどはというと、これを真面目に継続していれば今頃はもっと(苦笑)といった感じです。
ただ、開始して3ヶ月目には主任牧師の言葉がわかる!(全部じゃないですよ。0じゃなくなったくらい)
と感動し、途中怠けながらも一年過ぎた頃には主任牧師とスカイプで短い会話ができる状態までなりました。
ちなみに去年初めて受けたTOEICは395点でした。
学生時代、英語は赤点スレスレ、模試の結果が一桁だった私でも英語学習の入り口くらいには立てたかな?と思います。

(過去の私の名誉?のために申し添えますと、その黒歴史の模試は手抜きしまくって受けたものです。余計な心配かけてごめんなさいお父さんお母さん^^;)





はてなブログ特別お題キャンペーン #学び応援WEEK

はてなブログ特別お題キャンペーン #学び応援WEEK
by ギノ