christian_k15のメモ帳

プロテスタントのクリスチャンです。クリスチャンになって20年が過ぎました。

クリスチャンのノート術

Youtubeやインスタグラムを見ていると、Bible Study Journal あるいはBible Studey Journaling というタグで聖書研究するときの記録の仕方が色々アップされています。書き込むスペースが広く用意されてる専用の聖書があるのです。アナログな文房具や手帳術ノート術などが好きな人には刺さると思います。彼らは自由に聖書に書き込みをし、色を塗り、絵を描いて、自分だけの一冊を作っています。

これが「装飾する」のが目的になってしまうと本末転倒ですが、聖書に書き込みをすること自体はとても良いことだと思います。特に自分が思ったことや短い祈りを日付と共に余白に書いておくと、後で読み返した時に主の恵みやあわれみを知って感謝があふれます。デジタルの聖書でも線を引いたりメモをつけたりできますが、書き込みするなら紙の聖書の方が良いように思います。

 

私は昔から文字を書くのが好きで、聖書を読む時にもノートを取ってメモを書いたりしていました。使うノートも、キャンパスノート、ツバメノート、ライフのノーブルノートと様々です。普通の手帳(能率手帳ってやつです)を使ったこともありました。いろいろ使ってみて、今はバイブルサイズのシステム手帳にノーブルノートのリフィルを入れているのがメインになりました。牧師が来られた時にメモを取るのがこのシステム手帳です。日々のデボーションではそんなに使っていません。今、デボーションにどういうノートを作るか考え中です。分冊になっていて書き込みやしやすい紙の聖書があればなぁと思っています。

 

それからもう一つ、10月から祈りのノートを書き始めました。野帳という薄い新書サイズのノートを使っています。元々、日常生活でライフログやTODOリスト、メモ帳に使っていたので、一冊を祈り専用のノートにしました。夜寝る前に祈りのノートを書きます。だいたい、一日一ページです。見開きになったり、半分しか使わない日もあります。絵も描かず、色ペンも使いません。ひたすら文字だけです。まだ月の半分しか経っていませんが、最初のページを読み返してみるとちょうど悔い改めた頃の祈りなのでそれはそれは酷い有様です。迷って弱っているのが分かります。しかし、これは私の場合の話なのですが、『書く』ことによってより深く思いを巡らせて祈ることができるので、自分の心を神様にさらけ出すという点で悔い改めの祈りをノートに書いたのは良かったなと思います。

 

もし、あなたが「ノート術」や「手帳術」に興味があり、文字を書くことが苦じゃないなら、祈りのノートを作ることをお勧めします。

不思議な神のタイミング

聖書を読んだり、教会に行ったり、人から伝道されると、全員キリストを信じるようになるでしょうか?

聖書を読むことはキリストを知る初めですし、教会に行くことも伝道されることもキリストを知るきっかけにはなります。ですがその時に信仰を持つかどうかは人それぞれです。神のタイミングというのがあります。人には信仰を持つタイミングがあり、神によって定められています。そしてそのタイミングは、本当にその時が最も適切なタイミングだったと、後々わかるようなタイミングなのです。

私は私生活の問題が解決したところでキリストに出会いました。

私の兄弟は留学中に教会で救われ、ある人は人生のどん底にいて生命の危機に瀕したところで救われました。

困難がある中で信じた方が良いのか、それとも平穏な時に信じた方が良いのか、それは人それぞれです。どちらの時でもイエス・キリストに対する信仰を得て救われることが至上です。

神はその最終目的のために、人それぞれにタイミングを用意されているのです。

私がクリスチャンになったときの話

今日は私がクリスチャンになったときの証を書こうと思います。

約17年前、今では懐かしいインターネット掲示板全盛期、私はとあるキリスト教系の掲示板にいました。
私生活で当時の心配事が無くなり日常に余裕ができたので、かねてから興味のあった宗教の勉強をしようと思い、手始めにわりと簡単そうなキリスト教のことを調べようとしたのです。
数あるキリスト教系の掲示板のなかで特に活発だったのがそのスレッドでした。そこでは、のちに私の教会員の仲間になる兄弟と、ガチガチの反キリスト者の論者が、ほとんど毎日キリスト教の議論をしていました。
私は初め単なる傍聴人としてそこにいて、どちらの勢にもつかずにただ議論を読んでいました。次第に兄弟がどんな反対反論を受けても動じないで首尾一貫して伝道しているのを見て、『クリスチャンはいったい何を信じているんだろう?何を信じてここまでのことができるんだろう?』と不思議になり、『クリスチャンは何を信じているのか』を知りたいと思って聖書を読み始めました。(読む前に、掲示板で何から読めば良いか聞いたのを覚えています。反キリスト者の人は苦笑いだったでしょうね。反応がそんな感じでした)
勧められた新改訳の新約聖書をネット通販で手に入れ、教えられたように最初に祈り、マタイの福音書から順番に読み始めました。
読んでいる時はインターネットを開かず、掲示板を見ないようにしていました。一通り読んでしまってから掲示板に出入りしようと思ったのです。読んでいる間、兄弟からも反キリストの人からも何の影響も受けたくないと思ったからでした。
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ使徒、と読みすすめても、私はまだクリスチャンが何を信じているのかわかりませんでした。新約聖書イエス・キリストの伝記か伝承を書いた昔の本、という感じです。現代に生きる私とは隔たりがあります。イエス・キリストは2000年前の人物で、イエスに救われたのは2000年前の人たちで、今現在の私ではないと思っていたのです。
「ローマ人への手紙」に入りました。(これを読むまで聖書に書簡が含まれていることも知りませんでした。予備知識ゼロです)
福音書よりは分かりやすい語り口だったので楽に読み進めることができました。福音書は独特な言い回しだったり(ヨハネ福音書とか)、ユダヤ人向けの喩えが多くて私にはいまいちピンと来ないところもあったのです。パウロの書簡はローマ人に向けたものだったので分かりやすかったのでしょう。
このローマ人への手紙で、私を信仰へ進ませるみことばを読みました。

『私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。』(ローマ5章6節~8節)

この箇所を読んだとき、イエス・キリストが他の誰でもない『私』のために死んでくださったことを知ったのです。

パウロはぺテロやヨハネのようなイエス・キリストの弟子ではありませんでした。逆に反キリストで、クリスチャンを迫害する側の人間でした。パウロがクリスチャンになる経緯は使徒行伝に書かれています。そしてパウロがこの手紙を書き送ったローマの人たちも、福音書に出てくる弟子たち、集まった群衆たちではありませんでした。福音書に出てくる、イエス・キリストが直接的に奇蹟を起こして救った人たちとは違って、ある意味無関係とも言える人たちです。しかしパウロは、イエス・キリストユダヤ人だけじゃなくこの世界のすべての人々の救い主だということをあかししています。
私はパウロのあかしを受け入れ、イエス・キリストが『私』を救ってくださったことを知りました。

私はその場でイエス・キリストの御名によって祈り、イエス様がキリストだと告白し、クリスチャンになりました。だれも聞く人はいません。自分の部屋で自分ひとりでの信仰告白です。神が聞いてくださっていました。

そのあと、新約聖書を全部読み通してから再び掲示板に戻り、そこでも信仰告白してクリスチャンになったことをあかししました。反キリストの人はもしかしたらクリスチャンのサクラだと思ったかもしれませんね。おそらく特殊なケースですし、インターネット上では本当かどうか確かめることができませんから。
兄弟は自分の教会を私に紹介してくれました。特にこだわりがあったわけではないのでその教会の教会員になりました。(そういうわけで私の教会はアメリカにあり主任牧師と副牧師が時折来日されて祈りや聖書の学びをしています)

私は自分の経験があるので、主は実際に人に働きかけて救われる方だということを知っています。
聖書を読むだけで救われる人がいます。私は予備知識なしに聖書を読んで救われました。聖書が生きた神のみことばです。神はおられ、御子イエス・キリストの十字架によって私の罪が贖われ、またイエス・キリストの復活によって私は救われました。聖霊様は実在し力をもって働かれる生ける神です。

聖書を読むのに特別な知識はほとんど要りません。
必要な知恵と知識は神が個別に教えてくださいます。私が救われたみことばはローマ書にありましたが、ある兄弟は創世記、ある兄弟はまた別のみことばと、神が語られるみことばは人それぞれです。最終的にはイエス・キリストを信じて救われるという神の御わざにたどり着きます。
中国には政府に認められていない地下教会があって、その黎明期にあったのは聖書だけでした。教える人もおらず、兄弟たちは聖書だけを読んで救われていきました。神のみことばは力のあるものです。
私たちの国は幸いにして聖書を自由に読めます。それも母国語で読めます。神のみことばは生きた力を持っています。聖書は2000年前の人たちだけじゃなく、今現在の私たちにも宛てられた神のみことばです。
私が救われたのは兄弟の伝道ではありませんでした。兄弟自身が「なんでクリスチャンになったんですか?」と聞いてくるほどです。兄弟の態度がきっかけにはなっても、実際に私に伝道したのはパウロであり、パウロを通して働かれた主です。

私に恵みを施し、私を救ってくださった神の御名をほめたたえて賛美します。ハレルヤ。アーメン。

祈りと聖書を読むことの大切さ

クリスチャンの信仰生活で重要なことは、祈ることと聖書を読むことです。キリスト教用語で「デボーション」「ディボーション」と言います。日曜礼拝とは別に、日々の生活の中で祈りと聖書通読(パッと開いたところを読むのではなく、聖書全体を通して読むこと)の時間を取ると、信仰生活がグッと力強いものになります。

 

つい先月まで神様から離れた暮らしをしていた私ですが、ようやくこのディボーションをやるところまで回復してきました。やはり聖書を読まないとダメですね。聖書が他の本と違うところは生きた神のみことばだというところです。今、現時点の私に語られる神のみことばが聖書にはあります。読む人読む人ごとにあります。聖書は神の声と言っても良いです。神の声を聞くために何か捧げ物をしたり大金を払う必要はありません。読む前に、主イエス・キリストの御名によって「教えてください」と祈って読みます。すると神様は教えてくださいます。

 

「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」(マタイ7:7~8)

 

こう書いてある通りです。

ディボーションを再開して、聖書のみことばが霊的な食べ物だというのを本当に体感します。日本語に訳された聖書を読むことができるのは大きな恵みで祝福です。母国語で聖書を読むことができる国はそんなに多くないからです。神様の御恵みに感謝し、主イエス・キリストの御名を賛美します。

 

 

 

We must continue to trust God in all things.

「私たちはあらゆることにおいて神に信頼し続けないといけない」

 

昨日、主任牧師から届いたメッセージです。

「All things」は文字通り、人生のあらゆる場面、あらゆることです。

あることについては神様を信じ、あることについては自分自身の力を信じ、またあることについては家族や第三者を信じ、という事ではなく、その全部、ありとあらゆることにおいて神様を信じ続ける、ということです。これがなかなか難しい。特に日常生活については、人は神様を信じるよりも先に自分自身だったり他人を信頼してしまいます。それが普通で、生まれた時からそういう風に生きてきたからです。もちろん、人生の中では自分自身の努力や家族や友人の助けがありますが、そういうものの上に、まず第一に神様がおられるということです。

副牧師の先生が、ある聖書の箇所を教えてくださいました。先生はそのみことばが好きで、度々その話をされます。

「しかし、すべてのことは神から発し、神によってなり、神に至るからです。この神に栄光が限りなくありますように」(ローマ12:36)

すべてのことが神様から発し、神様によってなり、神様に至るのであれば、神様に信頼を置く人にとって心配事は一切なくなります。神様はあわれみ深く、愛情深く、恵みを施すのに何ら出し惜しみをされない方だからです。

どうか私たちがあらゆることにおいて100%の信頼を天の父なる神におくことができますように。神が私たちを助けてくださいますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

 

愛ゆえに与えてくださる神様

生きているといろんなことが起きますね。

先週、家庭でちょっとした問題が起こりました。第三者から見てみればそんなに大きな問題ではないことですが、当事者と家族からしてみれば挫折であり心配事であり悩みの種です。(そういうこと、ごろごろしてるでしょう?)家族の一員として心配していますが、一方で、主に依り頼んでいれば大丈夫という確信があります。

なぜか?

私こそが神の大きな恵みを経験してきたからです。それも、クリスチャンになる前からです。聖書を読んでキリストを告白しクリスチャンになってから自分に与えられていた恵みの数々を思うと、その大きすぎる神様の愛に茫然となります。失敗と挫折続きで将来の見通しもなかった人間が、家庭に恵まれ経済的にも安定して生活することができ信仰生活を止めさせられることもない。本当に不思議です。私の何が良くて神様は愛してくださるのだろうと思うこともあります。神は私を「愛する」ために創り、愛してくださっています。私に与えられている様々な恵みはその一端でしかありませんが、私はそれをすべて知ることもできません。見えないところ、知らないところでも神は働かれているからです。

 

この世の心配事や不安にかかりきりになると神様が愛してくださっている事実を忘れてしまいがちですが、そんな時こそ主イエス・キリストの十字架を思い出して神様により頼んで平安を得たいですね。