christian_k15のメモ帳

プロテスタントのクリスチャンです。クリスチャンになって20年が過ぎました。

信仰は神様がくださる“もの“

日常で「信仰」と聞くと、何かすごく胡散臭い綺麗事に聞こえてきます。不思議です。

人間には信仰を正義の旗にして争ってきた歴史もありますから、条件反射的に「うわ、この人やばい。近寄らんとこ」となるのもよくわかります。

日本人のクリスチャンに対するイメージは良い人で優しくて大人しい感じだと思いますが、これが外国、例えばアメリカの福音派のイメージになると別で進化論も信じないクレイジーな信者、となります。多くの人にとって、信仰は人間の思想、心の持ちよう、考え方、感情に過ぎないので、信仰が人間社会の権威や価値観よりも優先される場面を見ると理解不能になってしまいます。

こうしたギャップが起きてしまうのは、「信仰」の意味が違っているからです。

 

クリスチャンでない人にとって信仰は人の思想や心の持ちようですが、クリスチャンにとっての信仰は神様がくださる“もの“です。目には見えませんが実体があり、人の思想だとか心の持ちようだとかには全く関係なく動く“もの“です。

あまりピンとこないと思います。信仰が“もの“だというのは、私も初めて教えてもらったときにはわかっていませんでした。

そのとき牧師先生が噛み砕いて教えてくださったのは、信仰はスイッチのようなものだという事です。

部屋の照明はスイッチを押せばつきます。スイッチを押すときに人は何を考えるでしょう?今日の仕事の愚痴?厄介な他人への恨み言?

ネガティブな感情を持っていたから照明がつかなかった、そんな事は起こりません。善人だろうが悪人だろうが、普通の人だろうが殺人鬼だろうが、老人から子供まで、照明をつけるためにやる事は「スイッチを押す」ただこれだけです。人の思想や心の持ちようは全然関係ありません。もし数百年前の人が現代社会に来て電化製品を見たら、自由自在に操る私たちは魔法使いか「信仰心の篤い信者」に見えるかもしれませんが、電化製品を動かすのに必要なのはただの電気と各種のスイッチだと私たちは知っています。クーラーをつけるために魔法の修行をしたり善人になる必要はありません。

 

この世の部屋の照明は停電したらスイッチを押してもつかないことがありますが、神様が私たちにくださる「信仰」には停電もなければ断線もありません。信仰は神様が作った素晴らしいシステムで、イエス・キリストの御名を信じて救われたら、そのシステムのユーザーになれます。しかも無期限の無料カスタマーサービス付き。一度救われたら人の側でやる事は信仰を「使うか、使わないか」という選択だけです。