christian_k15のメモ帳

プロテスタントのクリスチャンです。クリスチャンになって20年が過ぎました。

お礼を言っていますか?

「ありがとうございます」
お礼を言うのは気持ちのいいものです。私たちが誰かにお礼を言うときは、たいてい、喜んでいるからです。喜びは私たちの人生を彩ります。
神に感謝の祈りを捧げるときも、同じように喜びで満たされます。

感謝の祈りを捧げていますか?
私はお願い事の祈りはよくしますが、感謝の祈りは義務的になっていたり忘れていることがあります。
義務的というのは寝る前に祈りの文章をそのまま朗読するような、心がこもっているとは言い難い祈り方です。
忘れてしまうのは本当によくあります。家族の帰宅の安全や健康を祈って、その祈りが聞き届けられて神が報いてくださったのに、無事に帰ってきたり病気が治った後ではもうそれが当たり前になってしまって気にとめないのです。本当なら感謝しないといけないところです。当たり前の生活は、当たり前ではなく、神がそうしてくださっているからです。

感謝の祈りは神に喜ばれる祈りだそうです。
神は私たちが喜んで楽しみ神に感謝する時、同じように喜ばれます。神と喜びを分かち合う祈りですから、感謝の祈りは素晴らしいものです。
今日、寝る前に、ほんの5分でも良いから、神に感謝を捧げて眠りにつきましょう。私もそうします。そうすれば安眠間違いなしです。なぜなら感謝と喜びというポジティブで穏やかな感情が、不安や恐怖といったネガティブな感情に代わって私たちのなかに満タンになるからです。

みことばが信仰の要

聖書は神様のみことばです。
旧約聖書新約聖書に分かれていますが、どちらも欠かせないものです。聖書全体を通して読む『通読』は特に大事です。

聖書を読むと、聖書は聖書の解説書だなと思うことが度々あります。
なんか文字にするとおかしい感じですが、感覚的にはこの通りです。

昔こういうことがありました。ある聖書解釈を読んだのです。聖書のみことばから理論的に導きだしているように思えました。そのHPを読み、無料で取り寄せられることができた書籍を読み、この解釈が本当なら教会を変えようとさえ思ったのです。
そこで所属教会の牧師先生に連絡を取り、その聖書解釈をぶつけてみました。先生は聖書からその解釈の問題点を冷静に指摘されました。
私はどうしたかというと、『どちらが正しいのか神様は教えてくださる』と、考え、聖書を読んだのです。
祈るのも忘れませんでした。クリスチャンになったときから神様は実際に私に教えてくださると体験していたので、教えてくださいと祈って聖書を読みました。
その結果、私が鵜呑みにしかかった聖書解釈のほうが誤りだとわかったのです。

聖書は偽りのない神のみことばなのですが、だからこそサタンが悪用してくることがあります。
エス様が試みを受けられた時のように、サタンは聖書のみことばを悪用して私たちを試みてくることがあります。対抗するためにはどうしたら良いのでしょう?イエス様はサタンの試みをみことばによって退けられました。私たちもみことばによって『みことばの悪用』を退けることができます。
聖書の通読が有効なのは、全体を通して読むことで『みことばの悪用』や、一部を切り取った恣意的な聖書解釈を避けられるようになるからです。

みことばが信仰の要なのです。

神様ってどういう方か?

神様ってどういう方なのか?

私が信じているのは、現実に存在して今もなお働いておられる全能の神です。
あの世の神だったり、天国の神だったり、ある特定の物事の神ではありません。それら全部、すべてのものを造られた神です。
神はすべての権威を持っておられる言わば王さまで、神の許可がなければ物事はうまくいきません。神の知恵は宇宙にも地上にも海の底にもあります。この世界全体を創造された方が神です。神の知恵は、宇宙の果ての銀河から、私たちの体の中にある小さな細胞ひとつに至るまですみずみにあり、世界は神によってすべて成り立っています。
聖書の神、三位一体の神はそういう方です。


それと共に、神は身近な方です。
人間の社会では、王さまに直接会うのは難しいことです。王さまの身近に居る人でなければ王さまと会話したり王さまにお願いしたりはできません。
神はそうではありません。神は人間の王さまよりずっとずーっと偉いお方なのですが、御子イエス・キリストを信じる人には『お父さん』です。神はイエス・キリストによって信じる人をご自分の子とされているからです。なので、信じる人は『父よ』と神に祈ることができます。
祈るときにどこか特別な場所に行ったり、なにか特別な儀式をしたりする必要はありません。イエス・キリストの御名によって、いつでも、どこでも、どんなことでも神に祈ることができます。間に誰かに入ってもらう必要もありません。兄弟姉妹たちに祈ってくださいとお願いすることはあっても、祈りは誰か特定の人の特権ではないので、自分でも祈ることができ、神はその祈りを聞いてくださいます。


世界の創造主である神と親しい関係を結ぶことができるというのは、人によっては混乱したり、うまく理解できなかったりします。

神があまりに偉大な方なので、畏れ多くてお願いなんてできない。
あるいは神は世界の問題のために働かれているから、自分のような小さい者の問題で迷惑をかけてはいけない。
もしくは、神と自分の間に親密な関係を結べるなんて思いもよらない。
私もそんなことを考えていた時がありましたし、今もたまにあります。

神と親しい関係を結ぶことはできます。
神がそう望まれているからです。
神はひとりひとりの信仰に応じて、ご自分の存在とご自分の愛とをあらわされます。

バイブルスタディのおとも

クリスチャンにとって聖書を読むのは祈ることと同じくらい大事なことです。
私はとくに、聖書を読んでクリスチャンになったので、聖書がどれほど重要か身をもって体験しています。聖書のみことばは信じる人にとっては生きた神のみことばで、信仰生活のエネルギーです。


私が聖書の勉強に使ってるツールはこんな感じ。

・聖書
 新改訳がメインです。紙媒体では3冊、新約聖書だけも3冊、その他分冊版がひとそろいと、新書版の新約聖書Kindleで旧約と新約、それからNew International Versionという英語の聖書が一冊と、これもKindle版を一冊持っています。Kindle版は検索が楽で便利です。

・Bible Gateway
 英語の聖書アプリ。毎朝9時になると「ヘイ!聖書読む時間だぜ(意訳)」ってスマホに通知がきます。アプリを開くと日替わりで聖書のみことばが読めます。NIV以外にも世界中の翻訳聖書を掲載。日本語ではリビングバイブルが掲載されています。読み上げの音声も聞けます。

・Audio Bible
 聖書の音声読み上げアプリ。Bible Gatewayでも聞けますが、個人的にこちらのほうが使い勝手が良いです。章ひとつを繰り返したり、書ひとつを繰り返したり、タイマーを設定したり、読み上げのスピードを設定したりできます。

・BBN聖書放送
 Bible Broadcasting Networkという、ネットラジオのサイトです。これもアプリがあるのでアプリで入れています。世界9か国語の放送が聴けます。日本語ももちろんあります。私は英語の勉強を兼ねてアメリカ版を聴いています。オンデバンド放送もあります。

・ノート
 ごく普通の大学ノート。英語勉強を始めてからはNIVを書き写して翻訳し、新改訳と読み比べたりしています。

・ICレコーダー
 最近導入しました。牧師先生のお話を録音してます。何度でも聞き返せるのでおすすめです。製品はピンきりですが、3000円レベルでも私には充分でした。良い製品であればクリアな音声が録音できると思います。

・付箋紙やマーカー、色ペン、鉛筆など
 Instagramで見かけた方法を真似しようと使い始めました。聖書に書き込むのは抵抗ある人でも付箋紙に書いて貼ればオッケー!なはず。。。でも聖書って紙薄くて付箋紙貼るのもけっこうビビるんですよね。私は今のところNIVのペーパーブックにしか使っていません(^_^;)先月、兄弟の聖書見たらめちゃくちゃ書き込んであってページの端もすり切れてて見るからに使い込まれた聖書でした。私もどれか一冊書き込み用にしようかな。新約聖書は一冊書き込み用にしてます。


聖書読むのは大事だと頭でわかっていてもなかなか忙しくて読めない、ってこともあると思います。
習慣付けるまではなんでも骨が折れるものです。
私は飽きっぽい性格で同じ日課を3日続けることが難しい(と、自覚してる)ので、いろんな手段をあらかじめ用意しておいてアクセスを簡単にしてます。
スマホって便利ですねー。たぶんスマホなかったらもっと読んでない(笑)聖書の翻訳やサイトの運営をしてくれている兄弟姉妹たちに感謝です。
イエス・キリストの御名をほめたたえて賛美します。アーメン。
 
 

読むものに注意して!

Twitterで、とある人のツイートを読みました。
内容は一般的にはごくごく普通のこと、暴力的でもなく、インモラルでもなく、センシティブでもない内容です。ただ心のうちを書いてあるだけのTLです。
それを読んでどうなったかというと、自分の身に起きたかのように不安に苛まれました。共感が過ぎたんですね。その人はまったく悪くはありません。悪いのはこの機会をつかんで私に攻撃してきたサタンです。

サタンはありとあらゆる隙を見逃さず、信仰を持つ者に対して攻撃してきます。本当です。体調面で攻撃してくるときもあれば、経済的に攻撃してきたり、心理的に攻撃してくるときもあります。
旧約聖書にヨブという信仰の人が出てきます。彼は体調面でも経済面で祝福されまくってる大金落ちの地元の名士でしたが、サタンの攻撃を受けて、自分の子どもたち、家畜などの財産、果ては自分の健康まで失ってしまいます。ヨブの嘆きはまるまる一冊の書物になっています。それでも神への信仰を捨てなかったので(ヨブは神をのろうことはなかったのです)、神はヨブの残りの人生をもっと祝福し、長寿を与え、繁栄を与えられました。
正直、ヨブ記を読むと憂鬱になります。ヨブが受ける攻撃は相当ひどいものだし、ヨブの嘆きもよくわかるし、もし自分の身に降りかかったらどうしようと思ってしまうんですね。

サタンが攻撃してくるのは信仰を持つ人間に「神をのろわせる」ためです。神に失望させ、信仰を捨てさせたいのです。神を信じるのは無意味だと思わせたいのです。神なんて存在しない、と思わせたいのです。
しかしサタンがどれほど仕向けてこようと、救われた人が信仰を捨てることは絶対にありません。
なぜでしょうか。その人が信仰に篤いからでしょうか?
違います。
神が救われるからです。
信仰は神がお与えになるものです。人の身から出るものではありません。信仰の度合いは人それぞれに違っていてもそれは神がひとりひとりに応じた信仰を与えておられるのです。神はご自分の手を離されることは絶対にありません。なので、私たちは神に祈ることができます。

とはいえ、サタンに隙を見せないというのは大事なことです。私たちは自分の健康状態に注意し、霊的な健康にも注意しないといけないわけです。
食中毒になりそうな食べ物を避けるように、見たり読んだり聞いたりすることも気をつけて見極めないといけないわけです。

私の場合は興味本意で深く考えずにある人のツイートを読んだためにサタンの攻撃に合いました。不安は神からくるものではありませんからね。
不安や怒りを駆り立てるようなもの、特に義憤と言われるようなものは注意深く取り扱わないといけないな、と思います。

お祈りと祝福の関係

クリスチャン生活は主イエス・キリストと親密になる生活です。
信じる者は聖霊様がその人のうちに住まわれる、主とひとつになる、とまで書かれているんですから当然ですね。お祈りはそんな主との関係をより親密にする行為のひとつ。

私はけっこう何でもかんでも祈るタイプで、神様もひとつひとつ答えてくださいます。お腹痛いときとか(笑)。笑い事じゃないんですけどね、その時は。切実。
家族のこともよく祈ります。そして家族のことに関して、神様が答えられるとき結果は確実です。
たとえば、試験。この試験合格するだろうか?主よ、どうぞ祝福してください。と祈ります。
神様が祝福するよ、とはっきり答えられるとき、ほとんど一か八かの試験でも合格した経験があります。
その他にも、スポーツの試合。勝てるだろうか?せめて一回戦は勝ちますように。できれば二回戦も勝って、戦いたい人と試合できますように。
このときは祈る前に神様が答えられました。祝福するよ、心配しなくて良い、見ていてごらん、わたしは祝福するから。
蓋を開けてみたら二回戦を勝ち上がり戦いたい人と試合できたどころか、その人にも勝ち、その次のリーグ戦でも上位に入り、次の大会への切符が手に!!

神様が「祝福するよ」と約束されたとき、必ず祝福されます。神様の祝福は確実です。
つい先月、主は私にこんなことを教えられました。
私が自分の子どもたちのために必要なものは全部用意するのとまっったく同じように、神様は私のために必要なものは全部用意されておられるということ。
なにか困ったときには遠慮したり神様のことを忘れないで祈りなさいということ。
そして神様は必要なもの以外にも大きな大きな祝福をすでに用意されていて、私がそれを受けとる用意さえすれば溢れるほど与えてくださるということです。

ほんとうに主は偉大です。
どんな小さなことも、また大きなことも、私たちにご自身の栄光をあらわしてくださる神様に感謝し、主イエス・キリストの御名を賛美します。
アーメン。

牧師先生との交わり

私は所属教会が海外にあり、主任牧師と副牧師の先生が年に数回来日されて二時間~三時間の交わりの時間をもっています。
どうしてそんな状態に?っていうのはまた今度書くとして、今回はつい先日まさにそんな貴重な時間を過ごしたのでブログに書いておきます。

主任牧師、実は先月来られる予定だったのが緊急事態で急遽帰国しなければならず残念ながらお会い出来なかったので、今回お会い出来たのは本当に嬉しい。
ファミレスでお昼ご飯をいただいて、それからお話を聞く流れ。ちなみに牧師先生、日本ではカレーライスもお箸で召し上がられる強者です。めっちゃ上手。うどんだって普通にお箸。
お会いする機会が限られるので、お話はだいたいひとつのテーマについて聖書のみことばを次々ピックアップしながら話されるスタイルです。最初と最後にはお祈りをします。
今回は今までも取り上げられてた『信仰』について。ローマ書10章17節、マルコ9章23節と11章24節、ヘブル11章の1節と6節。定番ですね。いつもはもっと山ほどみことばをピックアップする(家に帰ってから読んでねって言われるw)んだけど、今回はゆっくりじっくり信仰のお話を聞きました。
信仰がsubstance(物、物質)だということ、神様からいただいているものだということ、いわば道具であって神様は私たちが信仰を持ち続け、保ち、実際に使って成長させていくのを期待されているということ。そのために普段の生活でも『何を見るか何を読むか何を聞くか誰の話に耳を傾けるか』を注意しなければならない、というお話でした。
あと、『もし私たちが黙ったら石が叫ぶと書いてある(ルカ19章40節)。無機物でいのちもないただの石が神を賛美するなら、生きて手に聖書を持っている私たちはなおのこと神を賛美しなければならない』っていうのもすごく刺さりました。ほんとにな。聖書読んでて神様知ってて主イエス・キリストを信じてる人間が主を賛美しないでどうするのって話ですよ、反省。
帰りには什一献金とおうちで取れた収穫物(柚子とか)をお捧げしてお別れしました。今回は初めてICレコーダー持ってって録音したんで聞き返してます。主任牧師の英語、聖書の話のときはわりとリアルタイムで聞き取れてわかるようになってきたけど普通の会話はまだまだです。英語の勉強にもなります、たぶん。

普段は教会に通うこともなく聖書読んだりお祈りしたりして信仰生活送ってますけど、教会に所属して主任牧師や副牧師や兄弟たちのサポートがあるからできることだなとつくづく思います。
特に兄弟たちの祈りと献金のサポートが大きいですね。私の献金は雀の涙くらいなもんですけど、主が運用されて(笑)教会のなかで100倍に増やしてくださいますように。イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。