christian_k15のメモ帳

プロテスタントのクリスチャンです。クリスチャンになって20年が過ぎました。

悔い改めの祈り

クリスチャンでない人でも一度は聞いたことがある『悔い改め』

イメージされるのはカトリック教会の懺悔室でしょうか。
実際私もクリスチャンになる前、キリスト教のイメージといえば教会の十字架の前で罪を告白する『悔い改め』でした。
私はカトリックではなくプロテスタントの教会に所属することになったのですが、初めて牧師先生にお会いしたときに懺悔をどうやってするのか聞いた記憶があります。いわゆる懺悔はここではしないよ、あなたがしたければあなた自身が神様に悔い改めをすればそれで良い、と答えられました。キリスト教といえば聖職者に罪を告白する『悔い改め』だというイメージが刷り込まれていたので驚きました。
『悔い改め』と言えば神様に自分がやった悪いことを告白して赦しを乞うこと。私の個人的なイメージですが一般的にも大枠は外れていないと思います。
しかし、クリスチャンの『悔い改め』は、「悪いことを反省してあらためる」ことだけではありません。

罪を反省するのも悔い改めの祈りですが、それ以上に重要な『悔い改め』があります。
クリスチャンにとって重要なのは『神様のほうを向く回心の悔い改め』です。
神様から離れ、神様に向かっていなかった心を神様へ回す、自分が神様のほうを向いていなかったことを認めて悔い改める。神様へ立ち帰る、というのが重要な『悔い改め』です。

神様が私たちを離すことは絶対にありませんが、私たちが神様から離れようとすることはあります。

私の話をします。
ここ数ヶ月、私は祈りをおろそかにしていました。
ここ数ヶ月、私は聖書を開いていませんでした。
ここ数ヶ月、私は賛美歌を聞きませんでした。

これらはクリスチャンライフの要なのですが、これをしなかったから神様から離れていったということではありません。神様から離れて神様のほうを向かないでいたから、祈らず、聖書を読まなくなり、賛美歌を流さなくなったのだと思います。祈らず、聖書を読まず、賛美をしない。私は決して真面目なタイプのクリスチャンじゃないので毎日これをやってきたわけじゃありませんが、これほど長期間神様から離れていたのは今までなかったことです。神様のことよりもこの世のことを優先した結果、日常の意識のなかでも神様から離れていました。

数ヶ月経ってさすがにヤバいんじゃないかと思い、『悔い改めの祈り』をした時、呆然としました。
祈りにまるで力がありませんでした。私の祈りは壁に向かってつぶやく独り言のようでした。これは私が神様のほうを向いていなかったからです。私は何もないほうを向いていたのです。手応えがなくて当たり前です。
その時感じたのは神様のほうを向こうとしても力がなくて動けない、そんな感覚です。自分で方向転換ができない。それどころか自身の状態もわからない。聖書でイエス様が言われた「死人」ってこういうことなんだと思いました。

それまで『悔い改めの祈り』は「自分で自分を神様のほうへ向ける」祈りだと思っていました。違いました。私にできたのは「あなたのほうを向きます。向きたいです」と言うことだけでした。
今、私は神様の憐れみによって、やっとこのブログを書いています。


日常生活のわずかなズレがやがて大きなズレになってしまった。
そんな経験でした。
そして「神様のほうを向く」のは人の力ではできないということと、『悔い改めの祈り』は自分自身の決意表明ではなく神様に憐れみと助けを求めるものだということを知りました。

私の主イエス・キリストが私を憐れみ、私の方向転換をしてくださったことに感謝します。